LastUpDate:15/11/01.
奥義・秘伝について
平田 治

近年、壁押しという練習方法を止める所が増えていると聞きます。理由は「必要がない」という事なのだそうです。確かに壁押しの理屈に行きついてみると「その人には必要がない」には違いないのですが、では 必要がなくなれば切り捨てていいものだろうか?と考えると、それが通るならば「日本の弓は今後も本当にあの形が必要か?」 「あの弓の形を文化として残すなら理解できずのままでもセット(道具と使用方法)にして残した方が?」とも思いました。

これは本来しゃべるべきではない事になっています。その意図に私も賛同ですので通例にならいその人が練習によって気が付くのを待つ 私の忍耐力の練習にしなければならないのでしょうが、如何せん現代の弓(25Kg未満)では用の無い話なので 伝承の途切れる危険の方が切実に思い、
結局 酒の肴にされても仕方ないんじゃないか?(途切れると自力で再び発明・発見はかなりキツイ)という思いから触れてみる事にします。(推理小説を読む前のヒトにいきなり犯人をバラすようで甚だ不本意ですが

奥義・秘伝は普段の練習の中にあり。という言葉が示す通り、日本の弓 独特の技術習得に欠かせない3つの伝承は 初心者に教える射法 の中にあると思います。

  • 「打ち起こし」として必ず「上から引き下ろす」射法。
  • 「背中で引く」という口伝。
  • 「壁押し」に見られる「肘を締める」発想。

この3つがそろって始めて「腕力の限界を超える弓力」でさえあつかう事を可能とした先人の発明(もしくは習得方法の発見)が伝承できるのですが、現在すでに「強弓を引こう!」なんて人はおらず(西洋や中国の弓にも踏み込めない)日本の弓の 「その真価」 みたいな所を体感して喜べる環境にはありません。

また これらは1寸の弓の弓力(100kg以上)をも引くためには必要な技術ですが、発案された当時最高の弓力を使いこなす方法か?は ちょっと疑問もあり 結局そちらは 見つからず終いだったかもしれません。しかし こちらですら自然に見出すことは難しいらしく、語り伝えられた人だけが1寸を引くにまで至り 自然と流派の継承のような人の伝承の流れを作って行ったように思います。

高度な技術ほど失われやすい事は頭では承知していても平安時代後期から今までの長きに渡って伝えられたモノが 無理解 ゆえに 今 失われると日本の弓があの形である事も今この時代からは本当に飾りになってしまうんだな と思う事は耐え難く なら 未だ不精なれども一筆と思った次第です。(とりあえず3つの伝承の話はここでお終い。アトは練習して見つけてください)



奥義・秘伝について

ここから先は 「触れても まあ 問題ないだろう。」という話です。

奥義・秘伝という言葉の意味について、その説明を文献に求めると安斎先生(伊勢貞丈)の著述「貞丈雑記」には

  1. 「師匠(先生)に口止めされたから義理立てして教えない」
  2. 「流派に重みを出すために使う」
  3. 「自身がよく分かっていないコトをゴマかすために使う」
  4. 「相手が技術的に到達していないから教えない(教えてもムダ)」
  5. 「絶伝させる目的でしゃべらない」

という 5つの使い方があげられている と弓道講座(昭和16年発行)の中で紹介されています。

「へ〜ぇ?そうなんだ」という所で思考を停止させると、いまいちピンとこない話で終わりですが、
「なぜそう隠すのか?」「その結果どうなるのか?」まで考えると この5つは分けて語られているが結果論として1つの効果に結びつくと思います。つまり「不完全な理解誘う発言を止めさせる」この事で真相への理解に及ばないヒトの想像に任せて イタズラに誤解の幅を広げられたり 流布されるのを防ぐ そのためには一番効果の高い方法なのかもしれません。しかし私では なぜ先生が5つに分類されたかを察することができないので、まだまだ先生ほどの理解が及んでいないのでしょう。

私の思う所では 奥義・秘伝という言葉がさすモノは、その技術に至る理屈が理解困難で、コレの説明を試みたとしても 今度はその説明を理解することが困難。しかも練習により習得できていなければ(目の前でやって見せたところで) やはり 疑わしい。という評価を受けてしまう。
むしろ習得してから弓術の古文献を読めばちゃんと書いてある事に気が付くけど 習得していない時に読んだ所でコレがそうとはなかなか気が付かない。それは古い言葉だから?と現代の言葉に直す事を試みても その一言があまりに秀逸すぎて(長い年月をかけて良く吟味された言葉なので)コレを越える表現などそう簡単にできるものでもない といった感じです。

こんなものをどうやって理解・習得していくのか?昔の言葉には 物事の解釈には「理解(りげ)」と「行解(ぎょうげ)」の2つがある と聞きます。

このうち「理解(りげ)」については、字のごとく現代の「理解(りかい)」と意味するトコロはほぼ同じで、「理屈で筋道を整え そのモノを捉える」でいいかと思います。

次の「行解(ぎょうげ)」がこの理解困難な物を習得する方法なのですが、オイゲン・ヘリデル先生の著書「弓と禅」では阿波研造先生が「自然の中にはすでに不可解ではあるがそれにもかかわらずあまりに現実的なので、我々がその外の仕方では在り得ないかのように慣れてしまっている一致がある」と うまく表現されています。

現代科学の中で「行解」を表現するとすれば 科学者のいう所の「経験則」ですね(「行解」のいう理論を説明しろ!とは ボーデの法則を万有引力で証明してみろ!というのと同じ。現在でも やった人はおりません

「先ず何も考えずに習得する事だけ必死にやって 習得した後から『あ〜。こういうコトなのかもな』と思えばいい」という表現での説明は有名なトコロです。

つまりは自身の内にある知識・理屈で筋道が立てられるモノについては「理解」が、その外にあって自分の知識では簡単には説明いかないモノには「行解」を用いて習得するがいいだろう。という事でしょう。



昔の弓道の目的

各流派が揚げる個々の奥義・秘伝については上にあげた通り その技術を論じたトコロで説明できるものでもなく、本来 禁止されている事を暴露するのは後ろめたいので知識+技術の習得は個人に任せるとして、ここでは昔の弓(最近の人曰く「人殺しの弓」)がナニを目指していたか に触れる方がいいかな?と考えます。(コッチはコッチでさらに余計な発言は禁止されて然るべきに思いますが 禁止されているどころか結構色々な言葉で広まっています)

昔の弓の目指す所として、阿波先生は「無心」をあげておられます。また「武士道とは自分を殺す事」という表現は一般的ですし、人によっては 武士の「武」の字は「心を止めると書く」と表現された方もいます。
一貫流の究極の目的地は生弓(素戔嗚尊の持つ神弓 = (竜宮城が絵にも描けない美しさというように)理想に描く事すらできない弓)と表現されています。これも欲や壁を乗り越えずに辿り着ける甘い話ではありません

稚拙ながら私が自分の表現を使うとすれば「自分の心の井戸(井の中の蛙状態)を打ち砕く」のが昔の弓道の目的のように思っています。



心の井戸

「心の井戸」は「自分の心の周りに張り巡らせた防壁」と考えてください。

「自分の心の井戸を打ち砕く」と言えばこの壁はまるで不要なモノのように感じるかもしれません。しかし 人はこの壁を生まれながらにして持っているのでなく、育つ内に自分の心を支える&守るために自分の知識を使って作り上げていくモノです。
これを打ち砕くわけですから心を鍛えていない状態のまま これを壊し、世間の荒波 や 自身の
理解できないモノへの恐怖にさらせば 心を潰してしまいかねない。その人には重要な物です。

「心の井戸」について もう少し見ていきます。
先ほどは「心の井戸」を「防壁」と表現しましたが、人は自分の心を安定させるため知識を増やしその知識を筋道でつないで、「ナニかが起こっても考え及ぶ範囲」という安全地帯を まるでシーツのシワ伸ばしをするように広げていきます。この安全地帯の最端に「安心」か否かを分ける判断の分岐点がある。つまり「心の井戸」は自分の持つ知識で引いた境界壁のようなものです。

これは知識を増やす事でもその範囲を広げることもできるでしょうし 腕力を増やしても同様です。自身がチカラ弱くても集団の中に収まり「周りと一緒」であることで安心(必要な範囲を確保)する手もあるでしょう。しかし その人の心が強ければ強いほど必要ではなくなってくるモノでもあります。

なぜ壊す必要があるのか?
もちろん「壊さない」という選択肢もあるはずです。心を強く育てるにしても 筋肉を育てる時に筋肉に負荷を与えるのと同様に 心に負荷を与えて強くするのですから、つらい事に不慣れな人には不向きな作業です。
だったら 心が弱くても 知識を(軍事力を)増やして 安全地帯を広げていけばナニも問題ないんじゃないか?と考える事もできるでしょう。(昨今の軍備拡大論やアカシックレコードを切望する発想の根拠なのでしょうか?)

しかし壁の向こうは自分の理屈が通らない場所ですから 注意して行動しなければ偏見(幽霊と聞けば 即 迷信?と疑うような)や真実から目を背けたい理由そのものにもなり、時として間違った行動の原因(自分に分析・理解できない事 と 根本的に誤った発想 を 同列視したり)ともなります。
壁の内側に絶対の信頼と安心を預けてしまうと、その外側に対する恐怖も倍増されてしまいます
これは「壁のすき間から おっかな びっくり 向こうを覗いているようなもの」ですから致し方ないのかもしれません。



壁(心の井戸)を取り払う事

ここまでで「心の井戸」が自分自身を守るために作られた防壁であることは見てきました。

逆に「心の井戸」は心を強くしてしまえば不要の物とも言えます。しかし その鍛錬の過程が悲惨ですので、それを「人殺し」と言われると当たっているような、反論したくもあるが自分もえらい目にあってる様な で何とも苦笑です。(河毛先生も昔は「師匠に殺される」と思いながら弓を習得した。と残されていますし、私の今後もどんどんエスカレートしていくんだろうな。と

武道の精神鍛錬はいわば 弱い心を安心させるために ひたすら知識集めと虚勢を張り続けていた事を止めて、心を強くして「心の井戸」を取り払っても自分を安定できる事への方向転換と言えると思います。

また 日本語には「心」と「魂」という ちょっと区別に難しい言葉があります。

ここまでの言葉を使うなら「心」とは「心の井戸」も含めた他人から見たその人の個性(心の方向性)「魂」は「心の井戸」を取り払って出てくるその人の本質と表現できます。(面白いのは理性を取り払った むき出しの欲望などは まだ「利個的判断」という知識の産物=「心の井戸」の一部 となる事です)

そしてここまで説明すると「武士道とは自分を殺すコト」や 武士の「武」の字は「心を止めると書く」という表現は「心」もしくは「心の井戸」を取り払い「魂」だけで 物を見よう 強く生きてみよう。という話に思えないでしょうか?

私自身は まずは 壁(心の井戸)に頼らず1人で立つ。一番自然なこと。これが弓道。と考えています

昔 弓始めが8歳であった事も この心の井戸が作られる前にこれを壊す下地を作り始めていれば壁を「作って壊す」2度手間がない。という理由からの話であれば、昔の日本文化には心に関する研究成果がそうとう反映されていたという意味で大変興味深いですね。



あとがき

(30代の頃)、大学の部活として弓道をしていた学生に「当て方を理解した(これで思い残す事はなにもない)とか「卒業した後の目的が見いだせない」と こぼされて何と答えてあげれば良かったか迷った記憶があります。今、再びその機会があるとすれば 私はどう答えるのか?

自分自身の的中方法(正射)を知る。これはまず最初に必要なコトでしょう。そこで終わる人もいます。さらに他人の正射についても修め 弓の道理を知るに至る。ココで満足して足を止める人もいます。
さらに「自分が弓を引いているのか 弓に引かされているのか、的に当てているのか 的から当たりに来ているのか」という表現の意味する境地(無心=心の正射?昔はココまで来て免許)まで頑張るのか。

「これを言ったのは外国のヒトで弓道を学んだカタだよ!? さあキミはどうする?」と聞いてみるのもいいか と思いもします。(もちろん その先だって 弓の道は続いています。那須与一公、鎮西八郎為朝公と歴史に名を連ねる神業の領域 とか 生弓のいう神様の領域 とか