LastUpDate:02/10/28 14:05
残り武士河毛勘先生

                                                著者不明


 今から四十余年前、その頃はまだ大分古武士が存在していた。その方々で私がよく話をしたり、

聞かされたりした人々を思い出して見よう。弓術師範河毛勘先生は長命であったから、御存知の方

も大分あろう。寺町本願寺の横、野間家の長屋に住居があった。一貫流の先生であったことは周知の

通り。どちらかといえば小男の方で、温厚其のものの御人柄で、いつも木綿の縞袴をつけ静かに物

いう仁であった。いつ見ても手を休めておられるのを見たことがない。弓を直し、矢を作り、何か

をして居られた。そうして人に教えるということがない。むしろ一揖して、失礼ですが一寸此処を

こうして下さいと手を添えて射前を直されるには、習う方が恐縮して仕舞ったものだ。私は或時先

生の魚釣りに出かけられる途中に桜土手でパッタリ会った。簡単に挨拶して別れようと考えていた

処が、先生徐ろに頭の笠を取り、道端に置き、其の笠の中に手持ちの道具一切を入れ、それから時

候の挨拶を丁重にされる。こちらはドギマギ面喰ってしまった。それのみか、そのまま簡単に別れ

て下さらぬ。こちらが歩き出さぬと、笠にも道具にも手をかけられそうにない。軽輩の私が置き去

りに先に歩くことも出来ず、といって道に立ちつくすことも出来ず、失礼して私は歩み去った。以

来河毛先生を見たら一丁先から横道にはいるか、後戻りすることにきめていた。七十七歳の時、武

士出陣の正装をして、甲冑をつけ、太刀を佩き、弓を持って写真を撮られたものがあるが、これは

実際武士出陣の正装で、貴重な史料と思う。温和な顔に無髯。上マブタが常人より突出した感じで

燗々とした眼光の方であった。


                             (大正10年5月 撮影)

 この先生が或時、人には話してくれるなと口留された話がある。今から三十余年も昔、食用蛙と

いうものが初めて輸入された頃のこと。どこでどうして流れて来たか分らないが、御城跡の蓮掘り

に食用蛙が二、三匹居ついた。五月雨の夜など、あの雄大な声をはり上げて、ガゴウガゴウと鳴

く。初めの中は食用蛙など誰も知っている者はいないから、御堀に快物がおると噂になった。実

際其の頃の城跡は樹木が生い繁って、夜など一層に暗く、常盤木の大木が堀に陰をさして、今の公

設グランドの処も山ずそで、其のうえ扇邸屋敷にも樹木が繁生していて、夜など怪談には持ってこ

いの地勢であった。蓮池もまだまだ深かったし、学生の試肝会の場所などにも撰ばれている位だ

し、其の上この御堀りの気味悪さを立証する話として、或る大雨の際、この堀から大きな山椒魚が

這い出したことがある。二尺五寸(八〇センチ)以上もある山椒魚が、グロテスクな図体をのた打

って這い出したのを付近の人がとらえ、片原の三谷義治氏が買っていたのを、私が又買って、四、

五年飼ったことがあるが、こんな大山椒魚が成長する位この堀は神秘的に湛えていた。この堀から

グガアグガアと食用蛙が雄大な声で鳴いたから、怪談の元となった。「ヨシ正体を見究めて来る」

と脇差を持って深夜の堀に立ったのが河毛先生である。月明な夜は鳴かないが、シトシト雨の夜で

あった。怪気せまる声がする。こんな怪音は昔話しにもきいたことがない。どんな怪物が堀から出

るかと待てども出ない。堀の彼方と思って行くと、又此方に声があがる。その中雨は盛んに降り出

す。仕方なく扇邸の軒下へ雨宿りして半夜を監視したが声のみで怪物は出なかった。二、三日後唯

(唯先生のこと)に話したら、それは食用ガエルというものだと破顔一笑したがと、きまり悪そう

に、あんな土蛙まで日本人が食うようになったか。と私の顔をしげしげと見守って、男子の恥だ。

他には話してくれぬようにト。然し、先生逝去されて二十幾年。も早先生の信にも背きもすまい。


                      (大正15年2月26日 撮影)










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