LastUpDate:04/05/14 17:36
鳥取藩一貫流弓術
森 太 志

我藩世々武備を重んじ武芸得達の士を優遇し各其の流派を正し師範を立て 以って一藩子弟を教養し歳時親閲として能を賞し否を戒め奨励鼓舞士風の(たい)廃 を警飾す。是に於て乎熟練の士済々として林の如くその多きこと全国屈指の 中に属す。一時所謂武者修行と称し四方を周遊する者あれば至る所「因幡 を経て来る()」と問はしむるに至れり。是嘉永安政の交の事実なり。以て当 年武術の殷盛を知る可し。而して武芸は則弓馬を表芸と称し武門当面の本業 と為し槍刀を嗜芸と謂ひ武士臨時の警急に備ふ。その他居合柔術等の如き各 目練習して身を護り国に報ゆる所以を図る。我国近世弓()の術を謂ふ者日置 弾正正次(大和日置)日置弥左衛門範次(伊賀日置)を以て流祖と為す。而 して其の伝統数派に分る。




■ 竹林派大口伝弓術之系統






■ 一貫流弓術伝統





射芸に於いて最も其の精妙を見る。能く寸余の強弓を彎き貫皮を旨とし 務めて華麗の客儀を排斥す。伝統綿々として維新の後に及べり。(按ず るに一貫子積の意を受けて大口流を定め弟子に教ふと云はば一貫は子積 の直伝にて新たに師範し真の竹林派は谷口彦知に至て絶へたるか或は子 積より世殖世殖より彦知と伝へ一貫は彦知の統を続きて後始て先師子積 の意に拠り流儀の改定する事を得しか未だ之を詳らかにせず。且大野氏 の末流は弓槍刀共に一貫流と称して一貫を流祖とする由なれば自から竹 林派に非ず。故に今上の系統に接せずして別々之を出だせり)雁股箭の 矧ぎ方の如き世久しく疑義あり。然るを一貫工夫を凝らして制定せり。 或人曽って産室修する所の蟇目の事を談じて曰く。孤妖を祓ふなりと。 一貫齢未だ弱冠ならず。微笑して曰く。狐に備ふるは狗にして足れり。 豈武夫をして射儀の秘を修せしめるを要せんと。人其の見識に服す。 又武家故実に精しく著書(すこぶ)る多し。 (おおむね)考証確実以て典拠と為すべし。 槿室記・射術温故之巻・常射之巻・火旻録・弓式弁・帯甲通批評等最も 世に重んぜらる。定常(五代鳥取藩主池田定常)曽って其の数部を幕府に献じて賞賛を蒙る。柳営の 文庫永く之を蔵すといふ。一貫(たやす)く古人の成説を信ぜず。又苟も自己の 主張を(ふさ)げず。然れども其の人を教ふる懇篤(あぐ)むなし。故に一度門に及 ぶ者信服せざるは無し。余事刀剣を鑑識し挿花・点茶・聞香の末技に至 るまで通暁せざるは無し。最も弾琴を善くし声音清越(すだれ)を隔てて之を聞 けば宛然妙齢の女子の如し。人以て奇と為す。一貫曽って市街を行く。 (たまたま)理髪店の窓戸を開きて水を街頭に投ずるに会ふ。殆ど其の衣を汚さず。 義固より怒す可からず。一貫知らざる風して過ぐ。既にして店主を招致 し諭して曰く。今日我が衣の汚れざるは相互の幸なり。深く警む可きに 非ずや。因って以為らく床下に向って決水槽を設けば如何と。店主且つ (おそ)れ且つ喜び厚く再生の恩を謝す。爾后相伝へて所在理髪店皆決水槽を 設けしといふ。人皆一貫の所置に服せり。或は謂ふ。幕府曽って内意を 定常に伝へて一貫を徴さんとす。定常惜んで之を辞す。然れども一貫窃 に期待する所ありしに俄に蝮蛇の害する所と為り遂に起たずと云ふ。







大野又兵衛物部一貫

文化十三年六月二十九日歿す。歳六十三。一貫院測源日定居士。芳心寺 に葬る。碑面は唯「忠夫先生之墓」の六字を題す而巳。  字は忠夫 (よびな)は臥琴と称し一貫は「かずつら」と呼す。世系詳ならず。 西分地定常に仕へて百三十石(或は百十石ともあり)を領す。資性剛毅 志す所遂げずんば止まざるの概あり。常に人に語って曰く。凡事学んで 成らざる所以なり。能く我を捨て物と一心ならば(あに)成就せざらんやと。 年十二三の頃高坂武兵衛景綱の門を叩き武蔵流剣術を学ばんことを請ふ。 景綱其の志を試みんと欲して之を拒絶す。復至り復拒く。七回に及ぶも 尚懇情して止まず。景綱感じて之を許す。数年ならずして秘奥を授かる。 或人曽って今井鉄七貞勝(武蔵流剣術師範)が竹刀を以て唐(うす)の杵幹の 末端を打ち能く其の頭を(もちあ)くるを称す。一貫曰く。果して然らば太刀打 の強きに非ず。蓋力めて押すなるべし。真に打の強ならば杵幹当に摧折 すべし。貞勝は杵頭を抬け一貫は杵幹の軸を摧きしといふ。匹田流槍術 を井尻夫左衛門孟雅に学び熟達して皆伝を受く。曽って武者修行者あり。 井尻氏を訪うて技を(くらべ)す。諸門弟皆勝つ能はず。孟雅愧色あり。尚一縷 の望を一貫に属す。然るに一貫亦敗る。孟雅平生の手腕に類せざるを責 む。一貫曰く。彼を突くは易々のみ。思ふに我れ彼れに勝つも以て誉を 為すに足らず。彼設し他に求むる所あらん。歟豎子をして名を成さしむ るに如かずと。孟雅曰く。汝一人は則然らん。然りと雖も吾が道場の面 目を如何んせむと。一貫及復角試し三合皆勝つ。彼れ服せず。因って追 窮して園地に陥らしめしといふ。竹林派弓術を大口九郎子積に学び強弓 にて能く壱寸の弓を射ると云。子積古伝に自己の意を加へて一貫に伝へ ければ一貫能く子積の真意を了得そ為に流儀を改定し竹林派大口流を名 つけたり。凡そ一貫の諸武術に於ける僅かに十歳を過ぐれば其の門に入 り練習余念なし。十九歳に及んでは皆能く皆伝を授かる。然も尚研鑚を 怠らず発明する所多し。弓槍刀の三術の如きは自己の工夫に由り一家の 流儀を立て「一貫流」と称し以て子弟に教授す。




大野道之助物部一徳

文化七年八月十四日歿す。歳二十六。清暉院宗映口光信士。芳心寺に葬 る。  号は磨磷子後に不磷子と改む。初め又次郎と称す。又治郎・路之助とも あり。父一貫の弟子竹林派を学ぶ。父に劣らず能く強弓を射る。亦父の 自己の射則を授り是を一貫流と号す。然れども未だ全からず。故に竹林 派を師範すと雖短命にして父忠夫に先て病死す。時に未だ皆伝の門人一 人も有らず。故に父一貫復た師範して之を松尾主信へ譲る。

不磷先生墓

先生姓大野氏諱一徳称道之助不磷其号也其先出自菅原轟氏支別父即今忠

夫先生也性堅正従幼承箕裘鋭志武芸射騎刀槍以及火技無有他嗜而於射最

竭精妙専試貫革堅洞鉄鑊遠極三町尺的中率十七八嘗百発九十九中常謂凡

射之利在数歩間則兵刃且接不得持二矢故其習射雖於千発一矢不苟其精志

如此又纉明武器故実著述頗多特見卓識蓋不尠矣天假之年其所就豈可測乎

惜乎幼羸早逝人之云亡天命謂何実文化庚午秋八月十四日也享年二十有六

乎生操志果列凜如秋霜臨終慷概

                                門人  屈範 謹誌




松尾左平太主信

天明七年生れ 文政十二年正月十四日歿す。歳四十三。本光院心岳是性 信士。日香寺後山に葬る。初め運五郎と称す。一貫一徳両師の門人にて 竹林派一貫流の二流を学ぶ。一貫の死後竹林派を師範すと雖後改めて一 貫流を師範し門人保坂金右衛門政在に譲る。墓碑銘あり。

 




保坂金右衛門政在

天保十二年九月六日歿す。享年不明。円明院忠巌自照信士。菩提寺不明。 松尾主信の門人一貫流を学ぶ。主信死後一貫流を師範す。政在また読書 を好み人品を当時に称せられたる人と聞けり。政在の娣(万延元年閏三 月十四日歿す。良操院紘室貞心大姉。景福寺に葬る)は中村流弓術師範 溝口元久(万延元年閏三月十七日歿す。歳六十一。良築院絃的弓範居士) の妻にして性行温静貞順一家和睦実為希世之賢婦矣。其長男源太郎。長 女は高浜某に嫁す。




井関儀右衛門祐方

元治二年二月十四日歿か。享年不明。光明寺に葬る。初め儀三郎と称す。 松尾主信・保坂政在両師の門人譲りを受け政在の死後師範す。一貫より 四代の師の口授の趣を述べて射前に関する観善之巻一冊又一貫の著述な るも未だ完備せざる書に先代三師の口授の趣を加え射家の嗜に関する常 射之巻八冊温故之巻八冊を完備す。




松尾元之進主忠

文政四年十一月十九日生れ。万延元年五月九日歿す。享年四十。宝樹院。 日香寺に葬る。松尾主信の子。保坂政在・井関祐方両師の門人にて譲りを 受く。「もとのしん」と呼ぶ。墓碑銘あり。




佐藤清左衛門清治

享年不明。慶安寺に葬る。庄蔵・信成ともあり。松尾元之進の実弟なり。 井関祐方・松尾主忠両師の門人にて譲りを受く。明治年代東京に移住し 池田家に勤仕。妻子なくして死後諸事情不詳なり。




河毛勘清明

昭和十年十一月二十五日午後二時十分歿す。歳八十六。武徳院賢翁義勘 居士。大隣寺に葬る。

 勘は「さだむ」と呼し勘輔ともあり。嘉永四年二月二十八日松尾元之 進の二男に生る。槍術指南河毛藤内の養子にて明治四年二月二十八日相 続す。松尾主信は祖父佐藤清治は叔父なり。弓術一貫流・匹田流槍術・ 水野流一貫派居合・鎖鎌・忍びの術等修行す。

 慶応四年の鳥羽伏見の戦に初陣続て東征軍の東山道先鋒軍に加はり三 月甲州勝沼にて幕軍新撰組隊長近藤勇らの本陣にわずか四名たらずでな ぐり込みを計り奥州攻撃では負傷す。明治十年西南戦争起るや徴収の命 を待たずして新撰旅団に加はり西郷隆盛の死を見届く。武術師範家を基 本人とする因伯尚徳会に於て弓術世話係又鳥取中学弓術師範となる。戦 前の範士称号受有者三十名の内中国地方唯一の範士にして昭和八年射法 統一会議に於て全国流派代表(一貫流・竹林派・日置流・雪荷流・道雪 流・大蔵派・大和流・小笠原流)の調査委員を嘱託せらる。五尺二寸足 らず柔和なまなざし高邁な人格とすぐれた武芸にて門人より慈父の如く 慕れ生存中建られし碑県立鳥取弓道場前庭にあり。碑面に「弓道範士一 貫流第八世河毛勘先生寿碑」と題す。



(2004/05/14.撮影)




長い文章に慣れていない方用に
見出しを付けました。↓
04/11/03.

 一貫流は武術を教習すると共に故実を講習するを本意とす。故実と武術と は車の両輪の如しとすればなり。武術を練習するは期に当って勇をなさんと 欲すればなり。故実を講習するは弓矢の道に入りて精神を修めんと欲するが 為也。然らざれば熟達すると雖死生節義に当らず。武の本分を(あやま)る事なきに しもあらず。只武器を己が欲する儘に自由自在に使用する迄にては翫弄遊技の 業に似たり。生得或は血気の勇を勇士とせんが然らず。只事に勇猛なる勇士とす れば或は樵夫山賤が深山幽谷に入りて断崖絶壁に架したる丸木橋等を渡りて事 ともせず。又漁夫の暴風逆波を恐れ(おのの)くの色なき類も勇なるべし。然れども 此等の勇は馴れ得て勇なるのみ。又斬り取り強盗も勇なり。勇にあらざれば 成し得べからず。然れども此等の勇は匹夫の勇にして武士の勇にあらず。武 士の勇とするところは至誠以て神を敬し無我にして三恩に報ずるの行為 にありて大敵を恐れず小敵を侮らず威武に屈せず常住座臥不義の利益に移ら ず変に臨んで動揺せざる。是等を正道の勇とす。彼の匹夫の勇にては己が欲 望を(ほし)ひままにせんと利 を(むさぼ)りてなす事なれば 其勢盡き其力極りなば手を(ひるがえし) するより(すみやか)に屈すべき事疑なし。

日々の練習内容と武器の扱い心得、武士の勇について

正道の勇は其道によりて盡すところなれば其 道を鍛錬するの必要あり。此道を鍛錬せんが為には弓矢神の御神慮を尊慕す るものなり。此御神慮に其き上古を通し名君名将忠臣義士等の事跡に顧み古 武器の良否を鑑み信念することに精神を修めんとす。之弓矢神を尊仰し(ふる)き を(たず)ねんとする元素なり。然れども故きを温ね之に固着して時世を察せず故 事を強ひて励行せんとするは頑愚の至りなり。故事を時世に応用して国家の 為に盡さんとするを故実の本旨とす。斯の如き理由なるが故に一貫流の主意 を述べんとすれば武術のみに非ず。故実も伴ふが故に左の如く云はざるを得ず。

正道の勇は...

武術は教授するに体育と機敏に進むの行動あり。又五常の道(仁義礼智 信)之に伴ふ兄良弟悌長恵幼順の道を教ゆるを根本とするが故に武場を道場 とも云ふ。又技術に於ては其人の性質にもよれば何れも必ず上達するものと 定め難きものに付き敢て勝負に拘はるものに非ず。勝負は時の運に任せ潔く 死地に入るの心得を以て技術を競ふ事を()みするもの也。故に勝負を得ん が為に見苦しき振舞あるを恥とす。斯の如き主意なるに付き運動や体育のみ に解しては武術の本意と齟齬(そご)するものなれば茲に注目したき事ぞ。

武術は...

 蟇目の法を修する時は其人を命中せざるも其命を断つと。又鳴弦して妖魔 を退けたるが如き妙所ありと。一貫流は法を以て人の命を断つの如き事は不 可とす。希は弓矢の道に熟達し天地に恥ぢざるの武徳を修め其の効力を顕し たきもの也。又鞢の拇指の帽子先の恰好及矢柄の製造方等各流に用ふる所差 違ある由。然るに一貫流は当地の射術家形容に流れ実用を欠きたるを憂へて 一流を起されし流なれば作法に関する事柄の外或は鞢及び矢柄の制作方法は 流儀として定むるものに非ずと。只人の好む所とあれば其の意に任す事とせ り。弓矢等の製法も熟知すべきものとす。常射十五間の小的や三十間余りの 大的を射るのみに心を()かざるは一貫流の意とする所にして斯の心得を以て 時正に応用するの志行あるべし。又姿勢の美々しきを称美し外見を意とする 弓術ならば遊技にや。遊技なれば無論武術にあらず。甚だ遺憾に堪へざる也。

一貫流は礼法の射を不可

 一貫流弓術の要領は精神担力射中り射貫き強弓射前也。但し人は造化のな す所強弱大小智愚敏鈍あれば何人も必ず上達するとも定め難けれども心掛け 厚くして良師に随ひ熱心に練習すれば其人応分に上達するものに付練習こそ 肝要なり。射中りは云ふ迄もなく中らざれば用をなさず。但し中りと云ふ事 については冥土の矢と云ふ教あり。又射中るとも射貫き悪しければ又用をな さず。強弓と云ふは自分の力に過ぎたる弓を強いて射よとの事に非ず。強弓 も射習へば自然腕力増して手慣れるものなり。手慣るれば強弓よきは論を俟 たず。射前は元来実用には必要なし。何となれば臨機応変前後左右に発射す ることを得るに非らざれば弓術を得たるものとは云はれざる也。然れども射 前悪しければ強弓を引くこと能はず。引くとも射中り悪しく射貫き悪し。

弓術の要領

因って常射初学の練習には射前を先とす。然れども人々の生れ付きに依て腕肩 臂とも一様のものに非ざれば強いて其の人の不得手なることを師の好む射前 に矯正せんとするに非ず。足踏から発射迄の体勢を教ゆるも結局は其の人の 得手に任せ強弓も引け中りもよく射貫きもよき事を教ゆるを要とす。

後進指導の心得

 射場に進み的に向ひ礼拝するは何が故か解し難し。神国なれば何処にも神 が存するとするか。最初垜建設之際其の手にて払ひ清めてある筈なれば国民 が武技研究する場所に神がうかうかと存す筈がなし。精神の修養を為させて 貰う為とするか。武人は射場に立ちても行往座臥精神の修養は為し居るもの の筈又神に祈りて上手に成りたく祈らずば下手になると云ふ様な虚弱な精神 にては物の用に立つこと薄し。的は即ち敵なり。敵に対し敵を得るか敵に得らるるか 業を研究する場所に拝礼は不要なり。一貫流に云ふ所は弓矢は現今武器の資格 はなけれども使用する精神に於ては槍剣を使用する精神も同様なり。故に器 具が柔弱ならば伴ふて精神も業も柔弱に傾くの恐れありとする故に稽古には 成るべく強弓を好むなり。射位に於いて貴人高位の方及び観覧人の方に弓鉾を傾くるは無礼なり。

射場心得

弓矢を八文字に組み差上るは弓矢神を尊敬し弓矢を重 重ずる為の行為なり。弓構へは射物と弓手の拳と身体と一直線になるを好む なり。弓に(かね)をあてると云ふがこのことなり。打起しは弓を斯の如くして引 きよせものとするを打起の基本とする。手慣るれば如何様に打起しても引得 るものなれども引苦しきことを手慣れるより引きよき所に手慣れるを良法と なす。胴作りに於ては竪一文字横一文字の解釈他流と異なる。弓手馬手貫を ぬきたる如くにて胴は柱に足を引きこは兎角(とかく)体のすはり能き事を教ゆる歌な り。
 「」斯の如くにては墨打ちを為したる如くにて一文字の筆意にも背き一 貫流の射前に適せず「♀」斯の如くすれば文字の筆勢もあり一貫流の射前に 適す。引取は各流とも大同小異なり。併し三段に引くは好まず。勝手は肩に つくを好む。是は一貫流にあらず。総て古昔の弓書皆付くるものと記してあ り。竹林流は一貫流の遠祖にて肩に付くものとなす。右の通りにて肩に付く るは強弓も引きよく保ちよく心眼よしとす。故に肩に付くるは一貫流の発明 にあらず。昔時の射法に則りたるものなり。放れは気詰め気放れよく左右過 不足なく一拍子に放れるを良とす。五味七道等の要語は用ひざれども弓を射 る位のものは自然其要語に適合するものとす。

射前(射法のこと)

 又旧事は審判員を要せず審判員は角力の行事と同一のものにして角力は もと武人より出たれども武術にあらず遊技にして其の勝負は何人も知る如く 行事を要するは至当のことなれども武術は然らず得物を携えて勝負を争う ことなれば打たれし者は直に心身に感ずるものに付き自身その意を表わし 引き退くべし。茲に至れば何ぞ他人の差図を要するに及ばんや。審判員は 弓矢の道に(もと)り精神教育に甚大なる害あるべし。

審判員






一貫流の射則の箇条左に記し参考となす

  定 体

足踏の事。跽の事。胴作の事。腰詰の事。身規矩の事。

  臨 射

弓構の事。矢番の事。懸の事。当掌の事。

  眼 鵠

見渡の事。志物見の事。徹底物見の事。始末物見の事。心眼の事。

  調 彎

打起の事。押手の事。勝手の事。弓形の事。一文字規矩の事。

  満 固

付の事。臂形の事。肅の事。塩の事。

  心 気

位の事。澄の事。息相の事。気詰の事。響の事。

  発 射

放の事。矢色の事。弦音の事。弓旋の事。調子の事。矢声の事。

  斂 射

念の事。弓仆の事。




その他の心得は故実に則り種々有之。初段に冥途の矢と云ふ教へあり。中段

に体の矢と云ふ教へあり。夫れより順次故実により数種の教へありて精神の

鍛錬の主とす。体の矢・冥途の矢に関する秘歌を記して参考に供せん。

但し大口派の伝歌なり。




弦も切れ矢も折れ盡きて弓もなき

一筋残る躰の矢を知れ

躰の矢は死んで冥途の土産にと

残す心を深く案せよ

本来は弓矢も折れて躰もなく

とき一筋の躰の矢の傳

差し向い生死を分かつ一筋を

放さず持ちていかで勝なん

一筋を放つ時こそおしからめ

薄き氷か生死一重か

狙う物に先中らぬは下手なりと

言ふは修行の内にこそあれ

勝負するその一筋の矢をおいて

外るる事は無きものと知れ







元来弓術は射中り射貫き射飛びを研究鍛錬する已。射貫き射飛びは強弓に限

るべし。実用を第二とし外見の飾り微細の理窟を喋々するは武人の神髄を害

し一種の芸人の如くなりはせずや。兎角武技の精神を誤らざる事を一貫流は

希望す。

 

弓 道 範 士

一 貫 流 第 八 世  河 毛  勘 先 生





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