1st.UpDate:04/11/16
LastUpdate:10/07/10
鳥取藩剣道史  第三章 武芸諸流概説 より

山根幸恵

 

弓 術

 日置正次(彈正と称す。大和の人)の創めた日置流は近世弓術の主流をなしたが、その門流は数派に分れて、それぞれ普及した。吉田重勝(雪荷と号し、丹後に住す)の流れを雪荷派、吉田重氏(印西と号し、近江の人)の流れを印西派、伴一安(道雪と号し、丹後の人)の流れを道雪派、石堂如成(竹林坊と号し、近江の人)の流れを竹林派と称し、鳥取藩でもそれぞれが行われた。

 雪荷派は津藩の吉田重道の免許を馬渕典綱が得て伝え、その伝統は毛利忠良・木戸正晴(享保十一年<1726>十一月二日歿、八十二歳)、能勢頼常を経て同和光に伝えられ、さらに、由宇常直・同常政に至り、由宇長恭・山部源三郎から木瀬直綱に及んで幕末に至った。由宇常直の門人山下恒徳は道雪派も指南し、木戸正実に伝えたところで絶伝している。

 印西派は享保(1716〜36)の頃、津藩の吉田信重の免許を江戸定詰も安留正勝が得て伝え、その伝統は関口政時・木村正親・同正義・小橋元直・国留弘孝・高橋三十郎に至っているが、木村正義の時より後述する中村派もあわせ指南した。

 道雪派は佐枝系と安留系が伝えられている。佐枝系は享保の頃、山根興承・塙直光が江戸で藤堂家中の佐枝種重に免許を得て伝えたものである。塙の伝統は四伝して絶えているが、山根の伝統は次々と伝えられ幕末に及んだ。安留系は寛政(1789〜1801)の頃伊田之矩・津田元孝・山根恒徳が江戸駐在の折、清水家の士、安留元長の免許を得て師範となり、伝統がつづき藩内で行われた。

 竹林派は滝川正親の皆伝を大口子栄が得て藩内で行われたが、あまりふるわなかった。

 これら日置流四派のほかに中村種政の中村派がある。種政は輝政・忠継・忠雄に仕え四百石をうけた。道雪派・印西派を学んで奥義を極めた。師範となるにおよんで自らの工夫を加えて一流を創設し、これを教えた。
 射法の要とするところは、ただ一箭をもって敵をたおすにあって、二の箭を頼みとしない。敵が間近に迫って剣をふるえば、剣が身にふれるをまって弓を射ることとした。標的は内冑(うちかぶと)脇窩(わきつぼ)揺糸(ゆるぎいと)(腰)で、間近でこれを射れば、必ず敵を討ち取ることができるとした。 つとめて華麗を排し、実用を本旨とし、遠矢・数矢を射かけることをしなかった。戸田俊次・沢正利・岩田宗恒・福家方教にそれぞれ伝えたが、一番隆盛を誇ったのは沢正利の道統であった。

 一貫流は西館定常に仕えた大野一貫の創始するところで華を退け、実を尚び、強弓をひき、貫革を旨としたところは中村派と(みち)を一にしており、幕末まで栄えた。一貫は弓術のみならず、刀・槍にも奥儀を極め、自ら流派をたてた。すなわち、一貫流は弓・槍・刀を総称した一流である。特に弓術において、最も精妙を極めたという。


前:森 太志 錬士
後:妹沢 徹 錬士